リフレクティング・ヒロシマ主催が主催し、広島市のYO-HAKUで開催された展覧会「往復書簡 / Correspondance」。他者の経験や言葉に自分を重ねることで表象することの倫理性を問いかけ、変換されることの可能性を試みた本展。会期中に行われたパフォーマンス作品「往復書簡/Correspondance」をアーティストの平井亨季がレビューする。
展示情報
リフレクティング・ヒロシマ主催「往復書簡 / Correspondance」
会期:2024.3/7( 木 ) ‒ 3/11(月)
会場:YO-HAKU 広島県広島市中区小町 3-1 サンライズ小町 2F
パフォーマンス公演「往復書簡 /Correspondance」
ダンサー:岩手萌子、中西あい 映像:吉田真也
⑴ 3/8(金)18:30-19:15(開場:18:15) ⑵ 3/9(土)18:30-19:15(開場:18:15) ⑶ 3/10(日)11:30-12:15(開場:11:15)
” 対話すること ” から始まったワークショップ
EXHIBITION「往復書簡/Correspondance」は、リフレクティングヒロシマという共同体による約半年の連続ワークショップの成果物としての展示である。その2024.3/7(木) – 3/11(月)の会期中に展覧会と同じタイトルの「往復書簡/Correspondance」というパフォーマンスが全3公演行われた。私はこのパフォーマンスについて、初日の公演を観たのち、プロジェクトの主催者である吉田真也から共有してもらった記録映像を見てこの文章を書くことになった。全体像が少々わかりづらいかもしれないが、リフレクティングヒロシマという団体が広島にてワークショップを重ねたこと、それらを通して得た手応えを展示/パフォーマンスとして結実させることを目的とした「往復書簡/Correspondance」というプロジェクトを実施したということは確かで、その結果無事開催された展示とパフォーマンスに私は足を運び、鑑賞・観劇することができた。私はフライヤーのデザインやワークショップの記録撮影、トークへの参加、搬入の手伝いなど、少し遠くから関わっていた。ただこのパフォーマンスがどのようなものになるかは当日までほとんど知らなかった。
率直に言うと3月8日の初演を見た直後は、扱うテーマの大きさや複雑さ、抽象性の高さから、このパフォーマンスをひとつの物語として読み解き、意味に集約していくことの難しさにあてられていた。リフレクティングヒロシマの活動がまだ進行中であるということもその意義を固定化する難しさとなっている。ただ、改めて現場で起きていたことを素朴に受け止めていくなら、広島におけるこの活動の価値について、何か手掛かりが掴めそうな予感が観劇中からずっとあった。私が見たものは何だったのだろうか。ホームページには “今ではすっかり過去や死者への想像が及ばなくなった平和都市の中で、「見えざるもの」を幻視し、人々と土地を接続することを試みます。— 同時に象徴化したグラウンド・ゼロの都市の周縁で埋もれてしまった文化や記憶、物語を再発掘していくことを実践していきます” とある。
ここではパフォーマンスの記録映像を見返しながら何が起きていたのか、あるいは起こそうとしていたのかを私なりに探り、そしてこの連続ワークショップから展示/パフォーマンスを制作するという試みについても、往復書簡というテーマから解釈してみたい。まずパフォーマンスについて簡単にではあるがまとめていく。

と岩手萌子
パフォーマンス構成
1 12min
壁面の展示はそのままに転換されていた。椅子が一脚置かれている。まず1人の演者が登場し、椅子に置かれた文庫本を手にし、椅子に座ってページをしばらく捲り、本の内容を読み上げ始める。
「イーザリーさん、この手紙を書いているのはあなたにとっては未知の人間です、、」
2人目の演者が登場し、一瞬語りがユニゾンし、引き継がれる。ここから15分ほど語りは多少前後しながら、淀みながらも続くが、語る身体は動き、語りの主は行ったり来たりする。ここでの身体の動きは日常的な身振りやそこから展開されたような抽象的な振り付けで、語りの内容を説明するようなものではなく、むしろ身体の動きとリズムに語りが節づけられることもあった。語りが終わった瞬間暗転する。



2 7min
抑制された換気扇のような音が流れ始め、プロジェクターが壁一面に投射される。ゆっくりと原子爆弾らしきものが落下していく映像が映される。その光が演者の身体を照らし出し、爆弾のイメージは身体を通り抜けていく。この爆弾はフレームアウトした後、逆再生によって再びその姿を現す。時が戻っていくような演出なのか、あるいはその爆薬の原料がどこに眠っていたか、どこで生み出されここにやってきたのかを想像させる演出なのか。どちらにせよ強いシーンだった。
二人の黒いシルエットと壁に映される影によって、実際よりも多い数の身体が暗闇の中を蠢いているように見えた。


3 11min
プロジェクターの映像は終わり、会場の電気は消えたままである。観客席から向かって左に座り込んだ演者の持っている手持ちのライトが点灯される。壁に貼られた*アリー・ツボタの写真作品を丁寧に照らす。光で照らすことによって見えるようになったこと、あるいは光の眩さによって見えにくくなっていることを確かめているかのように慎重にライトを動かしていた。最後は再びしゃがみ込み、その光を抱きかかえるようにして徐々に光量を減らし、消した。
もう1人の演者によって会場右側に持ち込まれたスタンドライトが点灯し、その姿を照らし出す。影が壁へと鋭く投射される。ここからはしばらくの間は二人の身振りによって構成される。その中の断片、片足だけで立ち飛行機のように手を広げ真上から見下ろすポーズは、はるか上空にいたイーザリーについて地上から考えようとする不安定さを思わせた。途中演者による読み上げが一瞬入る。
「ギュンター、どうか私を信じてください。私は名声なんか求めてはいません」
スタンドライトも抱きかかえてから消され、会場はまた暗転した。
*アリー・ツボタの「Dead Letter Loom」では作品の一部として、アメリカ戦略爆撃調査(USSB)によって撮影された写真の複製が壁に展示されていた。


4 16min
英語による録音音声が流れる。同時に日本語訳されたテキストがプロジェクターによって黒地に白字で投影される。
「〈手紙の42〉広島上空で私がしたこと」
から始まる男性の声は落ち着いていて、イーザリーの記述したテキストを淡々と読み上げていく。
そのとき演者は2人とも投影された映像の中に埋もれて影になっているが、ゆっくりとその形を変えている。しばらくその状態が続いた後、英語の音声に被さるように演者による日本語の読み上げの録音音声が重なっていく。
そして語りが止み会場はひととき暗くなるが、すぐにプロジェクターから広島市内のモノクロの映像が投影される。雑踏の音。横断歩道の前の人々が立ち止まり行き交う人間目線のロングショット。知り合いを見つけられてしまいそうなほど歩行者の顔は鮮明に映っている。
その映像の前で演者2人は自分の立っている場所を確かめるようにしばらく徘徊する。かつてそこを歩いていた誰かが不意に現代に連れてこられたかのように。やがて二人ともうずくまり、次に動き出した時には別の生命体として生まれ落ちたかのようにしばらく蠢き、その後それぞれが独立して動き始める。もう一度英語の音声が字幕と共に流される。
会場向かって左のライトが点灯する。再びアリー・ツボタの写真を照らし、その流れで壁が照らされていき、プロジェクターの映像をかき消していく。もう一人の演者はゆっくりと後退してプロジェクターに近づいていく。両者それぞれの方法で映像の向こう側へと干渉しようとしているかのようだ。プロジェクターの映像、ライト、読み上げられる英語の音声、身振りも激しくなり、このパフォーマンスの中で情報量が最も多くなる。
そして声も映像も止み、椅子の上に置かれたライトだけが唯一の光源となり、二人の身体が共鳴し踊り出す。最後は残された光源に向かって這い寄り、そのスイッチをオフにして暗転することでパフォーマンスは終了する。
46,7分ほどの公演だった。


重なり合う身体、複数性へ
詳細の描写はまだまだ可能だが、一旦このあたりにして何が起こっていたのかを考えていきたい。全体を通して中心にあったのは二人の演者の身体だ。ふたつの身体のもたれあいや共振、声の引き継ぎや反復、衝突が会場を満たしていた。集合と離散を繰り返し、時折共鳴するその身体はひとつの役名では呼び表し得ない。そうした演者の身体/身振りと、椅子や本、ライトといった小道具、落ちてくる原子爆弾のイメージ、異なる言語による朗読音声、現代の広島のモノクロ映像などが継ぎ接ぎされて、全体が構成されているように感じた。こうした物語への回収できなさや複雑さ、意味深な感じは、初めの方にも書いた通り鑑賞する際の難しさでもあるが、とりあえず対立構造で物事を整頓できないために、戦争という題材を扱っていながら、敵対関係以外の関係を見つけることにつながっていく。語る内容と語り手の身体との関係が固定されていない状態やプロジェクターの映像の向こう側とこちら側を往還しようとする振り付けは、世界を概念的に分け、物質的な想像力を阻害している暗黙の空気、膠着している言説を揺さぶろうとする足掻きのようにも受け取れた。
そのようなパフォーマンスをじっと見ていると、不明瞭な世界から情報を見出すまなざしを持っているか試されているようにも、問いの立て方から変えていくことを促されているようにも感じる。プロジェクトの趣旨に、この広島の街において “今ではすっかり過去や死者への想像が及ばなくなった” とあえて書いているのは、整理された地表に外部からの視点や異質な言説が根差し育ちにくいことへの違和感からだろう。この公演の中から二項対立的な世界認識を乗り越えるビジョンが見つかるとすれば、その可能性は単純に数を増やすのではなく、安易に中立を自称するのでもなく、ふたつだと思っていたものの輪郭をなぞり、重ねられた線の複数性を見つけていくことにある。ここでの複数性とは、闇雲に数を足すことによって得られるものではなく、複雑に絡まった文脈を解読し、はっきりと見えないものに形を見出そうとする態度から生まれるものなのだろう。

そのように解釈していくと、このパフォーマンスは二人の演者による、新しい数え方のモデルを身体言語によって記述しようとしているドローイング群であったのではないかと思えてくる。繰り返し語られ硬質化したこの土地の文脈にしなやかな身体を与えて、対立も含みつつ、二者間の在り得る形をあたう限り見る者の想像力から引き出そうとしているのではないだろうか。現在の広島に立ちながら、かつての上空からの視点を想像しようとすることはきっとそれを促す具体例の一つだ。
拡張される、往復書簡 – コレスポンダンス
ここで展示のタイトルでもある“往復書簡”とは一体どのような行為か考えてみたい。
誰かに向けて筆を走らせる。いくらかの逡巡を経て物質化したそれを任意の流通経路に託す。相手へと届いたかどうかは返事が来るまでわからない。このコミュニケーションにかかる時間は現代から見ると途方もなく感じられる。言葉を選ぶ時間は、そのままそこにいない相手について考える時間と重なっていく。そこにいない誰かについて費やす時間は、内側へと侵食し内省的な性格を帯びる。そのようにして綴られる言葉は辞書的な意味だけでなく、二者間の関係性によって無限に拡張されていく。やがて相手がいるからこそ書き出される文字が意味を織りなし、並べられていく。
手紙は一度投函してしまえば送信取り消しなどできない。相手の反応は全く感知できず、届いたかも読まれたかもわからない。相手の身に何かあったかもしれないし、かつての自分の記述が相手を悩ませてしまっているかもしれない、書簡を送付してしまった後のどうしようもできなさは、コミュニケーションがそもそも不安定で不確実なものであることを思い出させる。ただ、文通が重ねられていくことと同時に積まれていく親しみも存在する。この不安の時間を共に過ごしているはずのここにはいない他者の存在は、時に近くにいる誰よりも心を強く支えてくれることがある。二者の間には相互に相手を鏡にして生まれる無数の反射の軌跡が、信頼関係となって結ばれていく。
こうした想像は、“往復書簡/コレスポンダンス”という語にいくつかの意味が含まれていることを納得させ、この語を展示のテーマとして据えることは、展示の企画者たちが二元論を越えるための交信の手段を探っていることを裏付ける。現代の一方通行的で即時的で機械的な返答ではなく、不安定である状態、固着していない状態に耐えつつ、確からしい表現のあり方を探っていくことを、リフレクティングヒロシマの面々は制作の基礎に据えていたのだろう。


クロード・イーザリーとギュンター・アンダースとの往復書簡をまとめた書籍を読むことから始まったこの連続ワークショップは、制作という営みの過程を複数人に開示することでイレギュラーな反応を呼び込もうという目論見であり、不確実なコミュニケーションを制作段階から起こすための仕掛けだったのだと理解できる。大きな問いを前にし、予定調和を未然に防ぐために不安定で予測不能な道を選び、ひとまず歩ききること。その足下から、意味に還元されない身体の物質性という豊かさを立ち上げていくこと。このパフォーマンスを目撃した私たちには、文通のような投げ出された時間を生活の中にどのように設けることができるのか、という問いへの応答を期待されているのかもしれない。
加害/被害のような二項対立を目の前にして、往々に私たちは言葉を失う。裁き難い歴史に対して、生きている私たちはどのように向き合えばいいのか。大通りで道に迷うことが難しいように、このような問いに自分の言葉で応えることはとても困難に思われる。2を簡単に3にして問題を保留するのではなく、そもそもその数え方でいいのかと問い直し、自らを含んだ歴史を立ち返って観察することは、地図の読み方を忘れて見知らぬ土地を歩くようなスリルを伴う。そのような意味から広島で発生していたこれらの一連の活動のそれぞれの現場は、固着した土地の記憶に身体を伴って入り込み、取り込み、掘り返し、大地の再設定を目指す、静かな挑戦の場であったのだと思う。
平井亨季(ひらい・こうき)
アーティスト。映像、本、インスタレーションなどによる作品を発表している。広島県生まれで、現在は茨城県を拠点に活動。個人的な身振りや類推を軸として、人が意味を生じさせる過程を表現している。主な展覧会に、2022「歩行の筆跡(ディスクール)」(吉田真也との2人展 ) タメンタイギャラリー鶴見町ラボ/広島、2023「Artists in FAS 2022」入選アーティストによる成果発表展 藤沢市アートスペース/神奈川2024、「Hiroshima MoCA FIVE 23/24」(広島市現代美術館賞・特別審査員賞)広島市現代美術館/広島など。
写真=吉田真也、平井亨季
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